管理者の部屋
トップページへ戻る 管理者の部屋のバックナンバー(2000年10月-2001年6月)
(2001年7月−2002年10月)
- 2004年 1月 4日 「赤秋」の思いを生きる。
明けましておめでとうございます。
新年は、なにか、統計データが気になるものですが、新しい目標を見極めたい、というような気分があるからなのでしょうか。
日本は押しなべて右肩あがりの成長路線は無くなった、かと思いきや、まだ慣性力が残っている面があったんですね。平均寿命です。
女性84.93歳、男性78.07歳。女性は世界一、男性はアイスランド、スウェーデンと並んで世界トップクラスだそうです。それに、100歳以上のお達者老人が2万人以上いるんだって。まさに、生命大国、日本ですね。
だけど、一方では、年金を始めとする、高齢化社会や少子化社会の問題が議論されて、年老いる事が、悪いことのように言われることも、盛んなようです。
30年前、1970年の平均寿命は、女性75歳、男性68歳くらいなんですね。
そのころ筆者も社会人となりました。定年60歳、年金受給開始60歳、でした。
もちろん、社会人になったばかりでしたから、そんなこと気にもとめませんでしたが、男が60歳まで働き、残りの8年間を年金で過ごす、というのはバランスのとれた収支勘定のように見えます。
ところが、現在は、この定年60歳は据え置いて、78歳までの生活をどう支え得るのか、ということを議論しているんです。少子化の中で、基本的にバランスを欠いた議論ではないだろうかと、誰もが思います。
第一、60歳といったら、まだきっちり現役で働ける年齢ですよね。企業の論理で、年功序列を止めて、高齢者勤労者を追い出して、リストラしようという動きを、誰も止められない。
政経一体となった、骨太方針が必要なんですが、これが無い。
今議論しているのは、いかに支給年金額を減らすか、いかに年金負担率を上げるか、ばかりで、もちろんそれは必要かもしれないけれど、いかに平均寿命に近い年齢まで職場を与えるか、ということには一切触れないのは、不思議です。
30年前のころと比較して言えば、定年は70歳、にしてもおかしくないはずなんですが。そうすれば、なにも若い人が、年金者を支える、という一方的な、被害者図式にはならないと思います。
70歳を越えている元気な有名人、藤田まこと、石原慎太郎、五木寛之、堀江健一、三浦雄一郎、仲代達矢、いっぱいいます。
まぁ、お国がどんな手を打つのか、わかりませんが、個人としては、まだまだ、これからが、自分の人生、本舞台という気持ちでいきたいものだと、思いましょう。
正月に、宮崎恭子(仲代達矢の亡き夫人)の「大切な人」という本を読みました。死の直前まで書き綴っていた、家族のお話です。
父、母、祖母、祖父、そして夫、娘、妹、と書いていく予定だったようですが、夫のところまでで、命、尽きました。ひとりの人間のなかにいかに家族の歴史が、血が、思いが流れ、生きていて、自分がいかに生かされているか、そのことを自然に感じさせる良い本でした。
彼女は、母を亡くした後、ひどく落ち込んだけれど、母が亡くなったという感じよりも、いつもどこかで見守っていてくれる、というように感じて、それから死が怖くなくなった、と言います。
彼女は劇作家・女優でもありましたが、こういうエッセイ風の書き物は初めてだったようです。
もっと沢山書いて欲しかった、と思わせる人でした。
彼女を亡くしてから、仲代達也はずっと独身を通していますが、さもありなん、と思いました。
TVで、毎日、茶室風ふうの書斎で亡き妻と語り合っている、風景を見たことがあります。
自分は命あるかぎり、老け込んだりしない、演劇というものに打ち込む決心だ、ということを語っていました。それが彼女のメッセージに対する応えなのでしょうね。
人生の四季に「玄冬」「青春」「朱夏」「白秋」と言う言葉がありますね。人生の最後は白秋で、おだやかに、人生で培ってきた果実を味わい、慈しみながら、この世を去る、という時期なのでしょうが、仲代達也は、これを「赤秋」にしたい、と言っていました。人生が終わるまで、真っ赤に燃えながら、生きていくんだ、って。
僕も、そんな風な人でありたい、です。
- 2003年 12月 20日 いのちには 願いがある。
いのちには 願いがある。
たった一行の、この言葉が、こころをとらえて離さない。
すべての人間は仕合わせにならなければならない。
仕合わせ、とは文字どおり、人が互いに仕え合って、支え合って、そして得るよろこび、ということだろう。
ひとは一人では生きられない。
あなたにあって、わたしは私になる、というのが、人間の不思議さ、である。
今日は思いのほか、冬晴れのいい天気になって、うれしい気分でした。
こんな日は、坂村真民(しんみん)さんの詩なんか、ゆっくりかみしめています。
うつしよにほとけいまして
われをみちびき
われをまもりたもう
うつせみのいのちを
いまにいたるまで
あらしめたもう
ちからよわきわれに
うからをやしなわしめ
いきるひのかてを
あたえたもう
ああ
うつつのごとく
ほとけいまして
なみだながるる
ひかりながるる
「うから」って家族のことですね。この詩をなんども読んでいると宮沢賢治の「雨にも負けず・・・」を想起します。
- 2003年 8月 7日
夏休みに入って、久しぶりにゆっくり近所の景色をみる。朝、早く起きても、会社へ行くためではない、と言うところがいい。ぼんやりと表へでてあたりを見回すと、思いのほかに、街路樹の緑が目に染みたり、ひんやりとした空気の流れに質感を感じたりする。
郊外の区画整理団地の端に位置する我が家の前からは、碧なす稲穂のじゅうたんが連なる田園になっている。ここはまた団地住民の格好の散歩口でもある。
いつもなら、ああ、犬を連れた散歩人の多い事だなぁ、郊外に家を構えることと、犬を飼うことは同じくらいの大事なことみたいだなぁ、とか思うのだが、今日は違った。
なにも特別の事もない、カップルなのだろう。サラリーマンらしき中年の男性は長身で、髪に白いものが混じる年齢ではあるがスポーツマン・タイプと見える。女性はかなり小柄で、あたまをすっぽり覆う帽子をかぶっている。おそろいのTシャツでもウオーキングパンツでもないのだが共に着こなされたグレー系のシャツに短パン姿。すいすい歩く男性にちょこっとくっ付いて歩いている女性のシューズだけが真っ白で、爽やかに、踊るように見える。
つかの間の夏休み、こうして散歩を楽しんでいるのか。美しい景色と思った。
「It was a great game.」米国の歌手、ビング・クロスビーの辞世の言葉だそうで、「素晴らしい人生だった」という意味ですね。人生というゲームを精一杯戦って生き抜いてきた人の満足感が伝わる言葉だと思います。
人生の最後の章で、こう言えれば良いですね。
身近にある幸せを掴みたい。
そして人間最後に「素晴らしい人生だった」とそう言いたい。
散歩するカップルと、クロスビーの言葉から、そんなことを確信した、一日でした。
- 2003年 4月 29日 人生最高のラブレター
1年は365日、30年は10,950日、時間に直して262,800時間。
これは50代の父親が20代の子に、素晴らしい50代を送るためには、毎日毎日を大切に生きなければならないと伝えるために、残された時間はこんなにしかないのだよ、と示した数字。
う〜ん、これを「これしかない時間」とみるか「こんなにもある時間」とみるか。
今、50歳近辺の人、人生80年として、あと一万一千日ほどを、どう生きるか。
あと、半分も人生がある、って気がしませんか。
ところで、2001年頃、「人生最高のラブレター」というのがちょっと話題になったようですね。
僕はその当時は気が付かなかったのですが、「日本一短いxxxx」の類で、特徴はそれが遺書の形態をとろう、という提案であること。
欧米では(と、なにも欧米だから良い、というつもりはないのですが、事こういう表現すること、個人の義務と権利についてまわる行為については、一長の感があるのは止むを得ない)結婚したときから遺書(遺言状)を書き始めるという。家庭をもつということは命を懸けて守るものができたということで、毎年誕生日になどに書き換えていくようです。
だが、遺書に拘ることなく、亡き人、現存の人、若い恋人、子供から親へ、となんでもありで、要は「家族や愛する人へ感謝の言葉を伝える」こと、というのが「人生最高のラブレター」。
毎年、遺言状を見せられるのは、考え物だが、「感謝の言葉」なら、一年に一度くらいは、はっきり表現して良いと、思う。
その中のいくつかに再婚者によるラブレターがあり、この人と再婚出来てよかった、という男性からのもの、女性からのもの、また再婚してくれた親に対する子供からの感謝のメッセージなどがありました。、再婚だから良かった、とさえ思わせるものがあります。その一部はこんな風です。
「正直に言うと、小さい頃私はお父さんしかいないからと何をするにも普通には出来ないと思っていたところがありました。
でも、色々な事に挑戦して、今好きな事ができるよになったのは、私たちにとって最高のお母さんをお父さんが与えてくれたからだと思います。
お母さん、思春期に入っていた姉と私をしっかりと教育してくれて、そして生活を支えてくれた事本当に感謝します。」
いつか「人生最高のラブレター」が書ける日がくるように。
- 2003年 3月 23日 生きる喜びを誰かに伝えたい
第二回朝日舞台芸術賞を大竹しのぶが受賞。
「とにかくお芝居が好き。舞台が毎日続いていくのが何より幸せでした」
蜷川マクベスを昨年暮れにニューヨークで公演したとき、
「劇場に入った途端、お芝居をしたいという思いが体中を駆け巡った。生きる意味や喜びを私が誰かに伝えられるとしたら、演じることを通してしかない」
芸術家でもない、一般人が、生きる意味や喜びを伝えるひとは、多くは無いだろう。
たぶん、家族だけ、ということになろうか。
多くはなくても、一方で、それは確実に必要なのだ。自分達の生きている証として。
生きる喜びを伝え、伝えられ、充実した時を送る、伴侶がいる、のだ。
そんな思いを喚起する、大竹しのぶのメッセージです。
- 2003年 3月 22日 恋するということは
今、万葉集を、読んでいます。読むほどに様々な貌を持つ万葉集だが、現代にも通ずる心情ばかりで、人間って変わらないものなのだなぁ、と感心してしまう。
万葉集 藤原麻呂、大伴郎女に贈る歌(524)。
蒸し衾(ぶすま) なごやが下に 臥せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも
ふかふかとあったかふとんにくるまっても あなたととも寝していないから、肌寒くつらい夜だよ
独り寝の寂しさ。古代から日本の恋歌で歌われつづけてきた、恋するということは、肌と肌を接して共寝をしたいということだ、という単純・素朴な真理。
いま、ある人と別れて、また新たな人を求めている、そのこころの深い底に、この気持ちがあるのだと思う。
あって当たり前で、とても嬉しいことだ。
その他に、万葉集を読んでるといろんな発見があって、興味がつきない。
大伴家持、坂上大嬢(おおおとめ)に贈る歌(742)
一重のみ 妹が結ばむ 帯をすら 三重結ぶべく 我が身は成りぬ
これが「一重の帯が三重廻る」の原典。
美空ひばりの「乱れ髪」、
「春は一重にまいた帯、三重にまいても余る秋」、
に、作詞家、星野哲郎って凄い、と手放しで感動していた僕だったけれど、本歌どりだった、というわけだ。
この乱れ髪以外にも無数の本歌どりが日本の歌舞音曲になかにすでにあるのだろう、と想像する。
これは、知らないでいて、星野哲郎って凄いな、と思っていたほうが幸せだったかもしれない。
知らないでいたほうがいいことも多いかもしれない、と様々なことについて、思ってみるのでした。
- 2003年 3月15日 何かを失うことが、新しい何かへの出発となる
「何かを失うことが、新しい何かへの出発となる」
かみしめたい言葉である。鈴木真砂女が96歳で逝去。
「喪失からの出発 神谷美恵子のこと」という本のタイトルを見ていて、真砂女のニュースに接する。
出発は、何かからの決別でもある。一回りも二回りも大きな目標に向かって。
真砂女、晩年に自選した代表作 2選。
羅(うすもの)や人悲します恋をして
今生の今が倖せ衣被(きぬかつぎ)
- 2003年 3月 8日 今、ここ、わたし
2000年も年を明けたと思ううちに、もう3月も半ばになってしまった。
そして、誰もが、時間の流れの速さをなげいているだろう。
年をとるほどに、その速さが増すようだ、と人は言う。
また、目的を持たない生活をしているほど、時の流れは速い、とも。
目的を持っていないから、その日その日に何を成したたが分からない、あっという間に時が過ぎる、そういう状態を、時に流される、と言うのだろう。
歳とともに、その流れに立ち向かう、抵抗する力が弱くなってくるようだ。
どんなに頑張っても、もうこの先に出来ることはたかが知れているのだし、これまでにもうたっぷり失敗を重ねてきたのだから、これから先に上手くやれる保障はないし・・・。
では本当にそうだろうか?
ここをどう考えるかが、分かれ道だ。
さらに、上に登るか、いやもうこれで、と下り坂に降りていくか。
今や100歳以上の人口が1万8000人で、さらにそれは増え続けていて、平均寿命も21世紀の半ばには90歳にもなろうという時代に、50代で人生を降りるなんて、それは早すぎる。
自分は、本当はやりたいことがあるのに、やらずに来たとか、思いもかけずに結婚に破綻したとか、子供がとんでもない方向へ行ってしまって会話もないとか、そんなこんなはあるでしょう。
しかし、それもこれもまだ人生の途中。
第二の人生、だとか、人生のやり直し、という風には考えない。
それは、変化の時期なのであり、これからが人生の本番なのだ、と考える。
生きる、ってつきつめて言えば、「今、ここ、わたし」だよ、とは心臓手術をした後も第一線で活躍している私の先輩Gさんの言葉である。
いつか、ではなく「今」やらなくちゃならない、どこかで、ではなく「ここで」やらなくちゃならない、だれかが、ではなく「自分(私)」がやらなくちゃならない。
経済活動でも、文化活動でも、政治やボランティア活動でも、「今、ここ、私」で行動すれば、時間は何倍も濃密なものとなり、時間はまだまだたっぷりと目の前にあるのです。
怠惰な心がそれを目隠しさえしなければ・・・。
作家の池宮彰一郎が「47人の刺客」で新進作家になったのが71歳で、90歳までは現役でやれると思っているそうです。
アカデミー賞映画にもなった「マクリーンの川」を書いたノーマン・マクリーンは70歳で教職を辞してから2年がかりで作品を完成させたそうです。
無始無終、人生の新生にあっては、始まりにも終わりにも、年齢制限はないのです。
がんばろう。
- 2002年 11月 3日 他者を幸せにするには、自分も幸せにならなければならない
今日の誕生花は菊で、花言葉は、「私は愛する」、だという。
この花言葉はNHKの放送で聞いたので、それなりの権威はあるだろうが、インターネットにあたってみると、「わずかな愛」、とか、「清浄・高潔」とか、いろいろ違いもあるようだ。
情報が多すぎて、使用するほうに判断の基準がないと、情報な無いのと,結果は同じになってしまいそうで、厄介です。
秋も深まってきました。人恋しさがますますつのるこの頃です。
秋風に かきなす琴の 声にさえ はかなく人の 恋しかるらむ (壬生忠峯)
この時季を反映してか、夏枯れていた感のある交際申し込みと、その反応が最近活発になってきたようです。
「私は愛する」といっても、片道通行の愛や、無償の愛は、この際どうだろうか。
「他者を幸せにするには、自分も幸せにならなければならない」、という基本精神で行きたいものです。
自分が望んでいる事が、ひとりよがりで自分中心過ぎないか、と反省すると同時に、相手にすべて合わせなければ進まない話であるならば、これもまた再考を要する話かと思います。
新しい交際が始まった時、価値観の相違が表面に現われてくる事があります。
幸せに恵まれて育ったひとには、成功体験からくる、自分が受けて当然と思う事柄が、人生経験とそれなりの苦労を経て今に至っているひととの間には、なかなか言葉では伝えきれないギャップがあるもののようです。
そんな時は、上の言葉を思い出してみてはどうでしょうか。
人間は皆、幸せになる権利があるので、あせらず、あわてず、行きたいものです。
- 2002年 11月 4日 人懐かしい、秋の夕暮
青空高く、おだやかに良く晴れた今日のような秋の一日を、菊日和(きくびより)とでもいうのだろうか。
暖かな陽射しは、洋室の窓からこぼれるようにそそぎ込み、目が痛いほどの強さ。
白秋の中に、まだまだ萌える想い。
あくがれをいだくおろかさと、
夢をみる貪欲のために、、、
あわれこの青春も暮れてゆくのに、
さまようほかのことをしらぬ私は、、、
と金子光晴という詩人が、ただひたすらに胸おどらせる旅へのいざないをうたっています。
人に出会うことは、旅そのものなのでしょうか。
秋には、ひとり旅も似合いますが、それもこれもまた、人に出会うため。
秋深き 隣は何を する人ぞ。 芭蕉
とは、今では、都会における隣人に対する無関心を言い得て妙、と理解している人が多いかもしれません。他人は他人、隣もなんとかやっているようだ、と干渉しないことの良さを語っている、とか。
芭蕉は、秋深き、という言葉の中に、それとまったく反対の気持ちを込めた、というのが正解のようです。
今日までは気にもとめずに居た隣人と、なぜかふと言葉を交わしてみたくなるような、人懐かしい、秋の夕暮れを詠っているのではないでしょうか。
ゆっくりと暮れていく秋の一日を、そんな会話をしながら過ごすパートナーを得たいものですね。
- 2002年 11月20日 幸福の黄色いハンカチ
11月16日、NHKの「山田洋次・しあわせ探しの旅」を見ました。20年ほど前の「幸福の黄色いハンカチ」という高倉健と倍賞千恵子の映画のロケ先が、記念館になっていて、毎年5万人の人がそこを訪れ、黄色い紙に自分の願いを書いて、記念館の壁や天井に貼り付けていく、そんな光景に引かれたからです。記念館の部屋中、まっ黄色に見える、それはおびただしい「幸せへの願い」の奔流なのです。
もともと映画の原作は、ピート・ハミルというアメリカの作家の「黄色いハンカチ」です。6ページにも満たない短編で、とても心打たれる小品なのですが、これが日本に移植されて1時間半の映画になるんだ、と以前から興味をもっていたハンカチ話ではありました。(読みたくても見つからない人がいるかもしれません。河出文庫の「ニューヨーク・スケッチブック」の付録に収録されています。ワープロファイルを持っていますので、興味のある方にはお送りします。)
山田洋次監督のメッセージは、この時代、今よりもっと良くなるって誰も思わない不幸な時代だ、ということでした。皆、将来に対して不安を抱いている。20年前の方が、幸せだったのではないか。皆、いま、何と戦っているのだろう、と黄色い紙に幸福の願いを書いた幾人かの人々を訪れる、という番組でした。
いじめ、不登校、精神破綻による犯罪、ひきこもり、家庭内暴力、幼児虐待、リストラ、熟年離婚、老老介護、年金不安、などなど、いまの日本を覆っているのは、未来の見えない閉塞感です。
70〜80年代には、日本の経済や教育は素晴らしいと海外にももてはやされた。ところが今や、日本は経済はだめ、なにより教育はだめと言われています。
失なわれた10年とかなんとかも言われるが、失うどころか、何物も持っていなかった、持ったと思ったのは幻想だった、ということではないのだろうか。
日本は、個人観、夫婦観、家族観、というものを十分に確立しないまま経済観だけを追い求めてきた50年間だったのではないか。
金、金、金、のエコノミック・アニマルで、経済的成功を一瞬世界に浸透せしめた時期があった、しかしそれはばい菌を世界にばらまいただけで、なんの基盤もない、幻想だった。
それだったら、もう一度、基本から見つめ直そうよ、応急手当なんかじゃなくて、その3種の神器を求め直そう、ということが必要かもしれません。日本の、日本人の本当の良さは、何なのだろう、と。
黄色い紙に書かれた、若者の「金持ちになって、楽な生活をしたい」とか「有名人になって、遊び暮らしたい」という声に、山田洋次監督は、怒りを込めて反駁します。こんなことではだめだ、と。
一方で、自分は何をやっても駄目で自信がない、自分はいったいなんになれるんだろう、と真剣に悩んでいる若者には、山田監督自身の助監督時代を振り返って、自分のような個性のないものが果たして監督としてやっていけるんだろうか、と悩んでいた頃を折り重ねて励ます、というシーンもあり、柔らかなこころが伝わってきました。
番組の最後にチャップリンの映画のせりふを引いて、「人生に必要なことは、勇気と想像力と、チョッピリのお金だ」と番組を締めくくっています。
チョッピリのお金でいいんです。お金のために全てを犠牲にすることはない。そのために不満や不安に陥る事の無い、なにかをつかむことこそが、いい人生を送ることなんだ、と共感しました。
- 2002年11月28日
今日も、うれしい連絡が入ってきました。
「退会します。
おかげさまで、素晴らしい女性に巡り逢えました。
これから先を大切にします。
ありがとうございました!」
こういう知らせに接するたびに、自分のことのように嬉しい気持ちで一杯になります。
これからが肝心です。
「人びとの季節」、という短編集のなかに、こんな言葉がありました。
「いっぺんに幸せになるなんてことは、あり得ないだろ。そんなら、ちょっとずつ何度も幸せになっていくほかないじゃないか」
幸せの瞬間を一つひとつ積み上げていって、新たな、豊かな人生を築き上げていって欲しいと思います。頑張れ!